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2019.08.09

2019年08月号連載企画 海外公共分野ICT化の潮流 No.13 黒海周辺で加速するイノベーションの風

JETROイスタンブール事務所
経済部長 廣瀬 浩三

1.地政学的不利が生む隠れたネットワーク型エコシステム

黒海という海がある。一説では、日当たりの良い「白い海」と言われた地中海に対して、この名前がつけられたという。(※1)日本人の目から見ると、あまり一般に知られないエリアがこの海の周辺には広がっている。
トルコを拠点に、中央アジア、コーカサス、中東のレパント(※2)、黒海沿岸、東欧といったエリアを調査で訪ねて周りはじめて2年近くになる(図表1)。はじめの私の印象は、経済の既に発展した西欧や、資源の豊富な湾岸と違い、資源国であっても十分に富が国全体に行き届いていないことが多く、大国や地域覇権国に振り回され、大きな経済成長から取り残された印象だった。特に、日本企業が近年、世界に連携相手を求めるスタートアップやイノベーションという切り口では見込み薄ではないかとの勝手な印象を持っていた。
しかし、今や日本企業が連日のようにイノベーション詣でに押しかけるイスラエルで、ある起業家から聞いた言葉がその印象を変えた。
「ウクライナやベラルーシなしには、この国のエコシステムは成り立たない。」
調べていけば、旧ソ連時代から、理数系に強い人材が多数輩出される国が、欧州の東側には存在している。欧州で、ITのアウトソースといえば、ハンガリーやルーマニア、ポーランド、そしてウクライナやベラルーシが名乗りを上げる。それはあくまで受託の世界ではないかとの反論も聞こえるだろう。実際私もはじめはそう思った。ところが、トルコ人のブロックチェーンに関する技術人材を育成する教育プログラムを提供するケマル氏はこれを否定した。
「ディアスポラの底力を甘く見てはいけない。日本が右肩下がりになり、中国やインドがなぜ強くなったか、君なら知っているだろう。」
あまり印象がないかもしれないが、このエリアは、労働のための移動を苦にしない人たちが多い。EUの政治統合の賜物として、EU内でのヒトの移動があったが、EUの東方への拡張、協力関係の構築に伴い、欧州内での人の移動は活性化した。また、中央アジアからは、ロシアやトルコに大量の出稼ぎ労働者が移動する歴史があり、この流れは、知的労働者にも存在する。レパントのシリアやレバノンの難民・移民も、米国・欧州から、アフリカ、中南米まで広く広がっている。コーカサスにおいても、アルメニアのディアスポラは、フランス・アメリカ・ロシアに幅広く存在している。
移民やディアスポラといわれる母国を離れた人々は、母国語を話すだけでは生きていけない。また、大きな元手や装置が必要な事業はできない。彼らは、金融・貿易商やITといった、ソフト産業で多言語を使いこなしながら生計を立て、やがて行き先の地域で資本を蓄えていく。アルメニアには、オンラインカジノのシステムの世界2位のシステム会社が存在しているという。世界2位という彼らの強みは、多言語を話す人材、IT人材を安く確保できることにあるという。人の移動の盛んな国の隠れた強みと言えるだろう。
こうした「移民」の稼ぎの一部は母国に送金され国内経済を支えている。しかし、それだけではなく、やがて生活基盤ができると、自分の家族や仲間を呼び寄せるようになる。より良い生活環境を求め
て、あるいは自分のような成功事例を作りたいとの一心だ。このような人の流れは、SNSでつながり、WhatsAPPで国を越えて連絡できるようなった今、ネットワーク型のエコシステムとして構成されていっている。
そこにあるのは、最近の欧州の右傾化やトランプ政権の政策の中で、どちらかといえば、「被害者」として取り沙汰される人々のしたたかな生き残り策だ。

図表1 黒海周辺の地図

(※1)黒海の名前の由来については諸説あり、黒は必ずしも「暗い」という意味をささないとの指摘もある。

(※2)レパントとは、東部地中海沿岸地方の歴史的な名称で、広くは、トルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域。現代ではシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルを指すことが多い。