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2021.08.13

2021年8月号 特集 公共イノベーションによるスタートアップ「Annold(アノルド)」の創業

名古屋市経済局イノベーション推進部
スタートアップ支援室 主任研究員
八木橋 信

1.はじめに

名古屋市では技術の研究開発や社会実装を促進することで、先進技術を有する有望なスタートアップをはじめとする企業等の集積を図るため、本市が提示した課題の解決策を持つ企業等や、社会実証の場(フィールド)を活用した実証を提案する企業等に対し、経費の一部負担やマッチングなどの支援を実行し、本市における先進技術を活用した社会実証を促進している。

本稿では、令和2年度の「Hatch Technology NAGOYA」において実施した6件の社会実証のうち、アノルド株式会社の創業までに繋がった例を中心に、本市における社会実証事業や今後の展望についてご紹介する。

地方公共団体における発注は、より良いものをより安く調達するため、不特定多数の参加者を募る「一般競争入札」をおこなうことが原則とされる。契約の担当課が、ある事業を発注する際には、入札の公告に備えて仕様書を作成する。仕様書は入札の予定価格の根拠となるため、担当課はこの段階でその業務の課題や目的だけではなく、最終的に納品されるイメージをあらかじめ想定した上で、その工程を分割し、費用を積算しなければならない。既存事業の更新のような場合には、現状の課題や新しく期待する内容などをあらかじめ把握できるが、従来にはない事業を発注する場合には、仕様書の作成が担当課にとって大きな負担となる。

一方、企業の側は、わずかな質問の機会を除くと、仕様書に記載された情報のみから事業全体を設計して提案書と積算書を作成し、入札に挑まなければならない。こちらも既存事業を更新するような場合にはあらかじめ概要を把握しやすいが、全く新しい事業等で具体的なイメージを一意に絞りきれない場合には、本来企業が持つ強みを活かした提案書とならないことも生じる。限られた情報から提案書を作成しなければならない負担や、受注後に発現し得る見えないリスクに対する不安要因は、受注経験の少ない企業や体力のないスタートアップ企業等が、新規に参入する際の障壁にもなっている。

これら担当課や企業にかかる負担、そして互いに想い描くイメージの相違が、経費の増嵩や適切な事業運営の妨げとなる。さらには、担当課と企業があらかじめ膝を突き合わせ、事業の課題や目的について議論できないことにより、よりすぐれた新しい事業のあり方を発見する機会が失われている可能性もある。しかしながら、機会均等の原則、透明性、競争性、公正性を旨とする地方公共団体においては、契約を交わしていない特定企業とあらかじめ事業について話し合うことは適切ではない。

より良い形で効率よく事業を遂行したい、しかし地方公共団体として公平性は担保しなければならない、というジレンマの解決策の一つに「社会実証」がある。

2.名古屋市の先進技術社会実証支援事業

名古屋市の社会実証はRoboCup 2017 Nagoya Japanのレガシーの一つとして、ロボット・AI(人工知能)・IoT(Internet of Things)の活用および普及、さらには次世代を担う人材の育成を図る目的で、行政分野における実証支援として令和元年度からはじまった。令和元年度は、庁内で集めた13件の課題に対して、名古屋市内に本店、支店若しくは営業所等を持つ、または設置する意向がある事業者を対象に提案を募集し、4件の社会実証を実施した。

令和2年度には、先進技術社会実証支援事業として予算を拡充し、課題提示型社会実証支援(以下「課題提示型」と呼ぶ)とフィールド活用型社会実証支援(以下「フィールド活用型」と呼ぶ)の2つの事業を実施した。課題提示型は、名古屋市の庁内から集めた行政課題、社会課題に対して、先進技術を活用した解決策を企業等から広く募集し、選定した実証プロジェクトに対する費用の一部負担や、専門家によるマネジメント等の支援を実施する事業である。行政課題とは、市役所内の業務改善や行政サービスの向上に関する課題であり、社会課題とは、行政課題を除いた、社会が抱えるさまざまな分野の課題となる。この年度からは、提案を募集する企業等から、名古屋市内に事業所を持つまたは予定しているという制約を外し、新ビジネス・サービスの創出を目指す市外のスタートアップや、個人からの応募も広く受け付けるようにした。担当課から提出された課題の選定や、解決策を提案してきた企業等の選定については、チームの優秀度、課題の理解度、職員との協調性、新規性・創造性、継続性・収益性、地域との連携、の尺度で評価し、最終的な企業等の選定は第三者である外部評価委員にも評価に協力していただき公平性や透明性を担保した。また、事務局である当室と業務の委託先である事業者は、ヒアリングや打ち合わせに常に参加し、事業全体を通じて伴走支援を実施した。

令和3年度は、従来の課題提示型に行政課題4件、社会課題2件の他、コロナ禍で新たに生じた行政課題や社会課題であるコロナ課題の2件を新たに追加し、企業等からの提案を募集するところである(執筆時点)。

一方、フィールド活用型は、名古屋市および民間施設等を社会実証の場(フィールド)として活用するため、場の提供と課題の整理・解決をするネットワークコミュニティ「Hatch Meets(ハッチミーツ)」を産学官で立ち上げ、先進技術を有する企業等の提案や実証ニーズを実現する事業である。令和2年度は5つの社会実証を創出したが、フィールド活用型は課題提示型のように費用の一部負担を伴わず、受け付ける件数を制限せずに、フィールドを提供する側とフィールドを活用したい企業等を結びつける支援をする事業であり、令和2年度から実施している。

さらには、令和3年度から新たに、創出された実証プロジェクトや参加団体の先進技術について、広く市民の方に体験していただくための先進技術体験事業の実施も予定している。

3.名古屋市中区民生子ども課とアノルドによる社会実証

Annold(アノルド)はもともと、写真に注釈をつける機能を持つアプリとして、中川拓麻氏および弥吉修英氏らにより開発され、両氏により設立された会社の社名でもある。当初、中川氏は個人として本市の課題提示型へ応募したが、中区民生子ども課での社会実証を通じて、令和2年10月14日に同社の創業へと繋がった。

中区民生子ども課から寄せられた課題は「日本語のわからない市民でも理解しやすい、スムーズな児童手当の申請手続きを構築したい!」という題名で、外国人住民の方がスムーズに児童手当を申請できるようになることを目的とした。中区は、区に占める外国人住民の割合が全市の平均である3.8%の3倍以上となる11.6%であり、市内全16区の中で最も高く(令和2年1月時点)、全国の行政区の中でも3番目に高い比率を持つ(令和元年10月1日時点)。さまざまな母語を持つ方々が居住しており、子育て世代が多いことも特徴で、中区での児童手当の申請件数が全体で年間約4,900件ある中、外国人住民からの申請は800件強と約16%を占める。

児童手当は子育て中のすべての家庭が申請できるため、同課の業務で最も件数が多い手続きである。外国人住民の方への手続きの記入支援は、言語の能力的にも時間的にも、職員に大きな負担となる。申請書はすべて日本語で記載されているため(Fig.1参照)、記入にあたっては職員が終始支援する必要があり、外国人住民、職員の双方にとって相当に時間がかかる状況である。また、制度の趣旨が正確に伝わらないと、受給要件を満たさなくなった時の手続きがおこなわれず、給付金の返還を求めるケース等が発生するなど、外国人住民との間でトラブルとなる場合もある。

Fig.1 児童手当認定請求書(記入例付き)

(出典)名古屋市

中区ではこれまでにも、タブレットを用いたテレビ電話通訳、窓口案内や通訳等の支援をおこなう外国人コンシェルジュの配置など、市民サービスの向上と多文化共生の推進を目標として整備してきた。社会実証には、市民や職員にかかる時間的、精神的な負担をより軽減することを目標に、先進技術を用いた解決策を求めて参加した。担当課が社会実証で目標にしたのは次の2つである。
・ 多言語による入力ガイドに従いながら申請できるツールの開発
・ 区役所に来なくても制度や申請方法がわかるツールの開発実証
最終的には、日本語で書かれた紙の様式に、外国人住民が自ら記入できるようになることがゴールとなる。そうすれば、外国人住民は職員の対応を待つ必要もなく、職員も別の業務をする時間がとれる。さらに、児童手当等は窓口だけではなく郵送でも申請ができるため、自ら自宅で申請書を記入できれば、窓口の混雑を解消することができ、外国人住民、職員の双方にとって負担の軽減になると期待した。

課題提示型の庁内課題は令和2年5月11日の締め切りまでに計19件が寄せられた。事務局による面談で、庁内課題7件、社会課題3件の計10件に絞り込み、7月17日にナゴヤ イノベーターズ ガレージにて開催した「Hatch Technology NAGOYAキックオフ&オンライン説明会」(Fig.2に会場の様子を示す)において課題の説明をおこなった。中区民生子ども課も、庁内課題の一つに選出され、現在抱えている課題について説明した。

Fig.2 「Hatch Technology NAGOYAキックオフ&オンライン説明会」於 ナゴヤ イノベーターズ ガレージ(令和2年7月17日)

(出典) 著者撮影

企業等からの提案は広くウェブ上にて募り、8月20日の締め切りまでに全国から計72件の応募があった。そのうち中区民生子ども課の課題に対しては6件の提案があり、その中で1件だけ、担当課が想定していなかった提案が中川氏からあった。

中川氏のプレゼンでは、まず何ら説明がないまま、クメール語で書かれたオーストラリアの入国カードが示された。外国人住民が直面し当惑している状態は、我々がいきなりこの申請書に記入するよう求められるのと同様であることを改めて認識した。書かれている文字を理解できない上に、その申請書が何を目的とし、どのような制度に則ったものであるか、見当もつかない状態である。ここから、課題は言語を「翻訳する」ことと、申請書の目的や制度について「説明する」という、異なる問題を解決する必要があると分析した。

課題に対して提案された解決策は極めてシンプルで、「説明する」部分を写真に注釈をつけるアプリであるAnnold(Fig.3参照)をベースに開発する、というものであった。注釈とは、語句や文章の意味をわかりやすく解説することであり、「読めるけどわからない」を助けるものである。既存の申請書を写真として取り込み、各記載欄をタップするとその注釈が外国人住民の母国語で表示されるようにする。「翻訳する」部分は別途外注しても良いし、担当課が業務を通じて蓄積してきた文書をそのまま利用しても良い。そして何より大きな利点は、担当課
が自らコンテンツを作成・編集することができるため、システムを利用する固定費以外に、業者への追加の費用負担がかからないところである。

Fig.3 中区民生子ども課に社会実証で導入されたAnnold

(出典) アノルド実証報告書

「解決方法はたくさんある」。中川氏のプレゼンで使われた言葉である。当初、担当課が漠然とイメージしていたように、多言語に対応した申請用アプリを用意し、そこへ外国人住民が入力すると最終的に日本語の申請書へ印刷される、という流れでも目的は達成できる。ただし現状では、紙の申請書に記入するためだけの目的に対して、名古屋市個人情報保護条例等で定めるところの、実施機関に課される個人情報の保護対策等に必要となるコストが過大となり、現実的ではない。

企業等との面談の後、担当課の職員と、当日、オンライン面談に必要な機材を運び込んだスタートアップ支援室の職員との議論は、さらに1時間以上にも及んだ。さまざまな提案を反芻し、現場で抱えている課題を再度洗い出すことで、写真に注釈をつけることができるアプリであるAnnold上に、職員自らがコンテンツを作成・更新していく未来をイメージできるようになった。

9月16日に開催された最終審査会には、8つの課題に対する9件の提案が残った。最終審査会は3名の外部有識者による審査員により構成され、各提案企業等とオンラインで面談をおこない、各専門の立場から社会実証の妥当性を評価した。最終的に行政課題4件、社会課題2件が選出され、中区民生子ども課の課題も行政課題の一つとして選ばれた。

中区民生子ども課と後のアノルドによる社会実証の最初のミーティングは10月8日にコロナ禍の影響によりオンラインでおこなわれた。事前の面談と同様に、中川氏による、何を実証するか、何を指標にするか、全体のスケジュール、初手は何をするか(次の1 ヶ月)、という課題の整理からはじまった。そして、できるだけ早く泥臭く実験をはじめ、データをとり洞察し、失敗して修正を繰り返し、そこから得られた知見から生まれる正しいアイデアで効率化・自動化を進めていこう、ということになった。AnnoldのiPad版アプリの開発と並行して、担当課でも現場の作業内容の確認、窓口の対応にかかる時間をストップウォッチで計測し記録、職員へのアンケートの実施などに取り掛かった。10月16日に一度だけ中区役所にて中川氏、中区民生子ども課の担当者、事務局が集まり、窓口の視察および実際の申請書を前にして打ち合わせをおこなった。その後は、コロナ禍のためメール・電話・オンラインミーティングにより実証用iPadの導入準備が進められた。

11月19・20日には、日本語以外に、英語、フィリピノ語の注釈に対応し (Fig.4参照)、区役所の通訳によるネイティブチェックも済ませたiPadの導入試験、そして中川氏による職員向けの使用方法説明会がおこなわれ、窓口でのiPadによる社会実証が開始された。

Fig. 4 日本語、英語、フィリピノ語に対応したAnnoldによる注釈

(出典)名古屋市

令和3年2月末に終了した本社会実証の結果をFig.5に示す。残念なことに、コロナ禍による入国制限の影響を大きく受け、例年の同時期であれば来庁者の6人に1人は外国人住民が来訪していた窓口に、全く現れない日々が続いた。ごくわずかに来庁された英語圏の外国人住民から、Annoldについて好意的に評価するコメントをいただけたのは幸いであった。職員によるコンテンツの作成も、申請書の写真を指先でスクロールし、注釈をつけたいところをタップして、対応した注釈を直観的にスムーズに入力できるUXにより、容易にできることもわかった。また、Annoldが職員により自由にコンテンツを作成・更新できるプラットフォームの役割を果たすことで、各職員が持つ知識や経験をデジタルのデータとして1箇所に集約することができ、そのコンテンツを市民に直接利用していただけるようになった。いままではベテランが他部署に異動する際に失われてしまっていた知識や経験も、Annold上に入力し標準化していくことで、部署に配属された新人であっても、標準化されたコンテンツを活用して、高いレベルで平準化されたサービスを市民に提供できる可能性が見えたことも大きな成果であると考えている。

Fig. 5 実証実験の結果:中区民生子ども課×アノルド株式会社

(出典) アノルド実証報告書

Annoldは令和3年度に中区役所で導入され、現在はさまざまな申請書への対応の他、市民の手元に届いた封筒に記載されたQRコードをスマートフォン等で読み込むことで、申請書の説明が表示されるようにする準備が進められている。また、中区役所における社会実証の取り組みは市内の他の区役所職員の意識を刺激し、令和3年度の課題提示型へ応募する区役所の増加に繋がったのではないかと考えている。

4.おわりに

実質5 ヶ月弱の期間しかない社会実証を通じ、その短い期間でも一定の成果を収めた社会実証に伴走した印象として、公共イノベーションに必要なのは、いわゆるアジャイル型の開発過程であると考える。公共サービスを熟知する職員と、システムの開発をする企業等の開発者は、共通するバックボーンを持たないことが多い。特に、公共の業務を受託したことがないスタートアップ等には、その傾向が強い。事前の打ち合わせでの課題整理の過程も含め、実際に試作品を目の前にした検証を通じ、そこから生じる具体的な課題について職員と開発者が議論することで、初めて職員は先進技術で解決できる範囲を理解し、開発者は現場で抱えている課題について理解を深めることができる。社会実証のように、広く企業等から提案を募る場合、各種の提案を選別する段階から、この検証ははじまっている。この開発過程は、単に最終的な製品を得るだけではなく、開発に参画した職員および開発者に新しい視点を与え、成長をもたらすことになる。社会実証を通じて、新しい視点を貪欲に求める機運を醸成することで、熱量の高い職員や開発者を増やしていくことが、今後の公共イノベーションに寄与することになると期待する。