現代の世界経済と安全保障の勢力図において、最先端テクノロジーの主導権争いは米中二大国による巨額の資本戦の様相を呈している。1量子ビットの精度向上、あるいは高度な半導体プロセッサの開発に数千億円が投じられる世界で、人口565万人の北欧フィンランドが地政学的な荒波を乗り越えながら量子技術において世界トップランナーとして躍進している。
フィンランドのIQM Computers社は、超伝導量子コンピュータの垂直統合型メーカーであり欧州最大のクアンタム・ユニコーンへと成長を遂げた。(同社は2026年7月2日NASDAQに上場した。評価額は約18億米ドル)またBLUEFORS社は世界の希釈冷凍機(極低温冷却装置)市場で圧倒的なシェアを誇り、日本の産業技術総合研究所(G-QuAT)にも導入されるなど世界の量子研究のインフラ基盤を支えている。
フィンランドは、VTT(フィンランド技術研究センター)を中心に、2025年までに50量子ビットの超伝導量子コンピュータを実稼働させ、さらに2026年に150量子ビット、2027年に300量子ビットのシステムへとスケールアップさせる強固な社会実装ロードマップを歩んでいる。国家の総人口が日本の福岡県ほどの国で、如何にして米国の大手IT企業や国家プロジェクトに匹敵する強靭で持続可能な最先端技術エコシステムを構築出来たのか。その秘訣を理解することは今後日本がイノベーションを軸に国家を成長させる上で大変参考になる。背景には潤沢な資源や大きな市場を持たない国だからこそ行き着いた「効率化の徹底」と「機能的な信頼“Trust”システム」をベースとする独自のイノベーション創発・実装システムが存在する。本稿では、フィンランドの量子技術から先進社会システムの全貌をビジネスとイノベーション戦略の視点で説明する。
フィンランドで量子技術が発展した背景
フィンランドにおいて量子技術が突如として発展したわけではない。その根底には半世紀以上にわたり地道に蓄積されてきた基礎研究の歴史と独自の技術的な強みがある。
起点は1965年にヘルシンキ工科大学(現アアルト大学)に設立された低温研究所(Low Temperature Laboratory)に遡る。創設者であるオッリ・ロウナスマ(Olli Lounasmaa)教授の指導のもと、同研究所は物質を絶対零度(マイナス273.15℃)近くまで冷却する「極低温物理学」の分野で、世界記録を次々と塗り替える世界トップレベルの拠点となった。超伝導量子コンピュータの心臓部である量子プロセッサを機能させるには、ミリケルビン(mK)オーダーの絶対零度直前の環境が不可欠である。フィンランドには、量子コンピュータという言葉すら存在しなかった時代から、世界で最も優れた「冷却技術」の知見と、それを支える職人技的なノウハウが蓄積されていた。この低温研究所のDNAが、後に世界中の量子研究所へ冷凍機を供給するBLUEFORS社の創業へと直接つながることになる。
「競争」ではなく「徹底的な協調」
先端技術を軸に量子技術の発展を加速させたもう一つの要素が、フィンランドの最大資源である「人材」である。18年以上の歳月をかけて基礎研究を磨き、後にIQM Computers社を共同創業することになるアアルト大学のミッコ・モットネン(Mikko Möttönen)教授やユハ・ヴァルティアイネン(Juha Vartiainen)氏らは、2001年に日本人の客員教授(中原幹夫氏)が行ったフィンランド初の量子計算講義に感銘を受けこの道を志したという。研究者の絶対数は限られていたが、フィンランドは「競争」ではなく「徹底的な協調」によって、限られた優秀な人材を国家規模のシステムへと転換した。それが、アアルト大学、ヘルシンキ大学、そしてVTTなど結成された「Institute Q(フィンランド量子研究所)」である。これにより、国内の大学・機関が互いの強みを共有し、アルゴリズムからハードウェア、材料科学に至るまで、全方位の知見をシームレスに結合する体制が整えられた。
図1 InstituteQの概要
(出典)InstituteQ
少ない資源を最大化する「技術のクロスオーバー」
フィンランドが採用した戦略は、莫大な資金を投じてゼロから新しい産業を作るのではなく、「すでに自国が持つ強みをレバレッジとして活用する」というものだった。具体的には、以下の3つの既存技術のクロスオーバーである。
① 極低温物理学:BLUEFORS社(世界トップクラスの冷却技術)による量子プロセッサを駆動させる超低温環境の提供
② マイクロエレクトロニクス&NOKIA遺産:VTTが管理するクリーンルーム「Micronova」と以前ノキアが牽引した通信革命の知見と高度な微細加工技術の活用
③ 超伝導検出器・光工学・医療機器(MEG:脳磁計など)の知見:微弱な量子信号を極めて高い精度で検出するセンシング技術
これらが量子技術という新たなパラダイムのもとで融合した結果、フィンランドは量子コンピューティングだけでなく、量子センシング、量子通信のすべてを網羅する「フルスペックの量子エコシステム」を短期間で構築することに成功した。資源が少ないからこそ、過去の遺産を無駄にせず、次世代技術へと転換する。これがフィンランドにおける成功要因の一つである。
