ビジネスへ導くエコシステム、北欧型「トリプルヘリックス」
フィンランドにおけるイノベーション創出の真価は、高度な研究開発活動以上に、迅速に技術を社会実装する仕組みにある。その本質が、北欧型の産官学連携モデル「トリプルヘリックス」システムと、それを中心的なポジションで推進するVTTである。多くの国で「産官学連携」の必要性が認知されているが、実態は形式的な委員会や利害関係の調整機関に終始しがちである。しかし、フィンランドのトリプルヘリックスは、一つの有機的な生態系として機能している。その象徴的な場所がヘルシンキ近郊の都市エスポーにあるオタニエミ(Otaniemi)地区だ。ここには、アアルト大学のキャンパス、VTT、そしてIQM Computers社やBLUEFORS社をはじめとする多様なスタートアップのオフィスが、徒歩圏内に高密度で集積している。大学の教授がスタートアップの技術顧問を務め、学生がVTTのプロジェクトでインターンを経験し、企業のエンジニアが大学のクリーンルームで次世代チップを試作する。ここでは、「産」「官」「学」の境界線は融合しており、コーヒーブレイクや廊下での雑談から数億円規模のプロジェクトが日常的に誕生する。
図3 エスポーにある量子クラスターの概要

(出典)Business Finland Quantum Techology資料
社会実装のハブとしての「VTT」
このエコシステムにおいて、大学などの基礎研究から産業界での商業化へのバトンをつなぐミドルウェアとして機能しているのが、前述した通り欧州最大級の応用技術研究所であるVTTだ。VTTのミッションは「論文を書くこと」ではなく「技術を社会に実装し、企業の競争力を高め、新たな価値体系を提供して社会に貢献すること」に特化している。VTTの真価を示す好例が、前述の最先端マイクロエレクトロニクス・量子チップ製造拠点であるクリーンルーム施設“Micronova”の運営である。大学単独では維持出来ない数億ユーロ規模の最先端製造装置をVTTが管理・運用し、それをスタートアップや民間企業に広く開放している。IQM Computers社もこのMicronovaのインフラをフル活用することで、莫大な自社の工場投資を行う前から、世界最高水準の量子プロセッサを製造することが可能となった。さらに、VTTは研究成果の商用化を促すため、積極的なスピンオフ戦略を採用している。例えば、VTTが開発した世界最先端の超伝導コンポーネントや信号読み出し技術などは、柔軟に知的財産(IP)が企業へと移転されている。その意味でVTTはまさに「イノベーションの工場」であるとも言える。
「持たざる国」が向かう先:総合安全保障とグローバルテック国家
フィンランドの戦略イノベーション戦略は、実は量子技術だけに留まらない。同国は、SAR(合成開口レーダー)衛星の分野で世界をリードするICEYE社(IHIと地球観測衛星コンステレーション構築に向けて連携)、超高精細なXR(拡張現実)のプロ用HMDで知られるVARJO社(最先端ステルス戦闘機であるF35のシミュレーションシステムで採用)、高度な半導体・電子材料を樹脂と一体化させる技術を持つTactoTek社(世界の大手自動車メーカーと連携)、そしてメタバース(デジタルツイン)にいたるまで、多種多様な先端ドメインで世界トップの地位を築いている。これらの技術群を俯瞰すると、フィンランドが目指す明確な国家像と未来の競争戦略が浮かび上がってくる。それは、「持たざる国」が生き残るための「省資源型・高付加価値テクノロジー国家」であり、同時に独自の「総合安全保障(Comprehensive Security)」に裏打ちされた「グローバル・デジタル国家」としての姿である。
なぜフィンランドは「量子技術・宇宙(衛星)・先端半導体・デジタルツイン」などにリソースを集中させるのか?一見独立しているように見えるこれらの分野には、一貫した「フィンランド的合理性」が貫かれている。それは、膨大な物理的資源(土地・原材料・電力など)に頼るのではなく、「人間の知能」「ソフトウェア」「精密な物理制御」の包括的統合により最小の資源から最大の付加価値を生み出すという戦略である。この思想のもと、各先端分野は分断されているのではなく、互いに連動して強固なイノベーション基盤を形成している。
複合的イノベーション基盤と「戦略的不可欠性」の確立
フィンランドの真の強みは、特定の技術で単に優位に立つだけでなく、世界のハイテク・サプライチェーンにおける「代替不可能なチョークポイント」にまでその技術を高めている点にある。例えば量子×極低温技術では超伝導量子コンピュータの頭脳である量子プロセッサがどれほど進化しようとも、BLUEFORS社に代表されるフィンランドの極低温冷却技術がなければ現状、超伝導量子コンピュータの運用は容易ではない。他にもフィンランドは砕氷船技術でも世界のトップクラスである。世界の砕氷船の80%を設計し、60%を建造する市場支配力を有しており、グリーンランドを含めたニューノース(新たな北極圏)時代、北極圏の地政学的・経済的な重要性が高まる中、砕氷船技術は安全保障上の強力なカードとなっておりトランプ政権にとっても重要な戦略パートナー国家となっている。