先端スタートアップが「死の谷」を克服する社会システム
ディープテック分野のスタートアップにとって、最大の関門は、基礎研究と商業化の間に横たわる「死の谷(Valley of Death)」の克服である。特に量子コンピュータの開発には莫大な設備投資と長い研究期間が必要であり、通常のベンチャーキャピタルのタイムライン(5〜7年でのリターン)には馴染みにくい。しかし、フィンランドでは2018年に創業したIQM Computers社が、わずか数年で欧州最大の量子ユニコーンへと急成長を遂げている。
図2 VTTの主要な役割
(出典)VTT general presentation
公的資金の戦略的活用と「最初の顧客」としての政府
フィンランド政府の特徴は、公的資金を単なる「補助金」として提供するのではなく、スタートアップの「最初の顧客」になるための戦略的調達資金として活用する点にある。IQM Computers社の成長において最大の転換点となったのは、フィンランド政府がVTTに対して割り当てた約2,000万ユーロの予算である。政府はVTTを通じて「国家としての量子コンピュータ調達プロジェクト」を発足させ、その共同開発パートナーとして当時まだスタートアップであったIQM Computers社を選定した。ディープテック企業にとり政府や公的機関が「最初の実績」となってくれることの価値は絶大だ。これにより、IQM Computers社は「国家のインフラを担う技術ベンダー」としての強固な社会的信用を獲得し、民間市場や海外市場への進出基盤を一気に固めることが出来た。その後も政府からVTTへ7,000万ユーロ規模の追加資金が投入され、これが現在の150〜300量子ビットマシンの開発へとつながっている。公的資金を「呼び水」として使い、民間の投資リスクを大幅に引き下げる(De-risking)ノウハウが国全体に共有されている。
段階的リスク軽減による官民連携
フィンランドにおける官民連携のシステムは、Business Finland(フィンランドイノベーション局)やTESI(フィンランド政府系投資会社)を中心に、企業の成長フェーズに完全に同期している。シード期、Business Finlandによる返済不要の補助金で技術のPoC(概念実証)を行う。シリーズA以降はTESIなどの政府系VCが民間のトップVCと協調投資を行い、大型の資本を注入する。この段階的な資金供給体制により、スタートアップは技術的なマイルストーンの達成に集中出来、資金ショートによる「死の谷」に埋没することを防いでいる。
グローバル投資家を惹きつける「透明性」と「垂直統合の魅力」
世界最大手の機関投資家や、欧州・アジアのトップVCが、フィンランドのスタートアップ企業に巨額の資金を投じる理由は、フィンランドの社会システムが持つ「圧倒的な透明性と信頼性」、そして「確実な実行力」も関係している。フィンランドは汚職認識指数が世界で最も低い国の一つであり、政治的・法的な安定性が極めて高い。さらに、大手の量子コンピュータを開発提供するグローバルプレイヤーのクラウド経由によるクローズドなエコシステムとは一線を画し、フィンランドのエコシステムは自由度の高いオープンイノベーションを志向している。IQM Computers社のように、自社でチップ設計ツールを持ち、VTTのインフラを利用した独自の製造工場を構え、アセンブリからソフトウェアまでをワンストップで提供する「垂直統合型のビジネスモデル」は、投資家にとって極めて魅力的である。これは「地政学的リスクに強く、サプライチェーンが安定している」という強力な投資妙味となる。クラウド経由のAPI利用だけでなく、最高度の安全保障が求められるHPC(ハイパフォーマンス・コンピューティング)センターや国家機関に対し、「オンプレミス(現地据え置き型)」でシステムを丸ごと販売・納入出来る実体のあるビジネスモデルがグローバル資本を引き寄せる強力な磁石となっている。またIQM Computers社の量子コンピュータは、オンプレミス環境での利用を前提としたオープンシステムを採用している。クラウドサービスのようなブラックボックスではなく、ユーザーはハードウェア及びソフトウェアスタックへフルアクセス出来る。これにより各種パラメータや制御条件を変更しながら研究・評価を行うことが可能となり、量子アルゴリズムの開発にだけでなく、ハードウェアや制御技術を含めた実践的な量子人材(量子ネイティブ)の育成に適した環境を提供出来る。こうした点においても投資家にとり予測が難しい量子技術における長期投資の観点で重要な価値提案となっている。
