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2018.06.10

2018年06月号トピックス 「英国映画界の巨匠ケン・ローチ監督と考える、デジタル・ガバメントの未来」

フリーランスライター 
内田 伸一

2016年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した、『わたしは、ダニエル・ブレイク』をご存知だろうか。イギリスの地方都市で慎ましく暮らす初老男性が、病気による休職を機に社会のセーフティネットからもこぼれ落ち、生活苦に追い込まれる。その様子を、現状の社会保障制度も通じて描く社会派ドラマだ。そこにはまた、英国が本格導入し、日本を含む各国も検討を進めるデジタル・ガバメントに対して一考を促すまなざしもある。監督は英国の大ベテラン、ケン・ローチ氏。筋金入りの左派をも自認する映画人であり、本誌への登場を意外に感じる読者もいるだろう。だが、行政情報システムの専門家に学ぶと同時に彼のような別の視点にもふれることは、いまデジタル・ガバメント化の流れの中にある私たちにとって有益なのではないか。そうした考えから今回のインタビューは実現した。取材に応えてくれたローチ氏および配給会社ロングライドの皆様に深謝したい。

 

1.市民生活に実例を求めた社会派ドラマ

ケン・ローチ監督は「反骨の映画人」として知られる。現在81歳の彼が半世紀にわたる映画人生で描いてきたのは、しばしば労働者階級や社会的弱者であり、権力に批判的な視点で社会問題を扱う姿勢は一貫している。すでに表明していた引退を撤回してまで取り組んだ『わたしは、ダニエル・ブレイク』では、市民を支えるはずの行政サービスに翻弄される英国庶民の姿が描かれた。主人公のダニエルは59歳の生真面目な熟練大工。妻に先立たれてからは単身で慎ましく暮らしていた。しかし心臓疾患で医者に休職を指示され、社会保障制度を頼ろうとしたとき、苦境が始まる。劇中にはローチ氏ら製作陣による数多くのリサーチに基づく実例が随所に取り入れられ、映画にリアリティを与えている。

 

「私たちはこの問題をめぐる数多くの出来事について新聞を読み、改善運動を行うグループからも多くの話を聞きました。苦境にある人、経済的に不安定な人、そして病気を抱える人などについての実話です。たとえば病状が悪化して命の危険を招かぬよう、働くことを医者から止められた人でも、行政の査定が働くべしと出れば、働かねばならない。そうした状況下で自死を試みる人々もいます。彼らは自身の病の深刻さを知っていましたが、飢えの不安にも苛まれていたのです。これらの実話の数々が、私たちの映画づくりを導きました」

ダニエルはまさに上述のケースで、最初は就労不能扱いで雇用・生活支援手当(ESA: Employment and Support Allowance)を頼りにするも、政府の委託業者によるマニュアル的な再審査でなぜか「就労可」とされて支給は停止。不服申し立ての手続きは遅々として進まず、遂には求職手当申請を勧められ、まだ働けない体にもかかわらず職探しをするという矛盾に陥る。

視点を変えればこうした問題は、一方でやはり問題視される社会保障金の不正受給にも関わる。限られた社会資源を正しく分配するチェック機構も、もちろん重要だ。ただ、それが本来ならセーフティネットで支えるべき人々まで振り落としてしまっては、本末転倒であろう。また映画では、ダニエルの知人で2人の子を持つ若いシングルマザーが、慈善フードバンク(貧困者などを対象に、店頭販売が難しくなった食料品などを支給する組織)で缶詰をむさぼり、我に返って泣き崩れる場面もあった。彼女は後に生計のために売春を選ぶ。これらも、近年の実事例を元にしているという。

「2017年、英国でフードバンクを利用せねばならない人々は100万人以上いました。そこには多くの家族や子どもたちも含まれます。約50万人の子どもたちが、慈善組織からの食料なしでは毎日きちんとした回数の食事を得られない、ということです。このような豊かな国で、このような事態が正しいことだとは、到底思えないのです」

 

 

2.デジタル・ガバメントに対する警鐘

電子政府化における行政手続のデジタル化にも、同作は一考を促す。ダニエルは前述のような経緯からジョブセンター・プラス(公共職業安定機関)に直接相談すべく出かけるが、そこでの手続きは多くがデジタル化されていた。パソコンを使い慣れた人々には便利な「進化」が、デジタル機器といえば旧い携帯電話しか持たず、かつ単身で身寄りもいないダニエルのような者には「障壁」となり得る。

「新しいテクノロジーも、常に全ての人々に恩恵をもたらすとは限りません。テクノロジーが大企業の人員削減に寄与すれば、雇用の減少も生じ得るわけですから。ただ、この映画が扱う課題の本質は、テクノロジー自体の問題ではないと思います。テクノロジーは本質的には、ニュートラルな知識や情報に過ぎない。重要なのは、それをどう使うかです。たしかに若い世代は、より容易に新技術に対応できるでしょう。しかし、古い人間にはそれを上手くできず、テクノロジーの利用法を知らないことが人生を困難にしてしまう。数々のわかりにくい専門用語や独特の言葉は、テクノロジーに追いつけない人々にとっては混乱を招くだけです」

ローチ氏はテクノロジー自体を否定しない。劇中、ダニエルのアパートの隣に住む黒人青年は、同じサッカーファンとしてSkypeで交流する中国の若者と「ビジネス」を始める。それが違法輸入なのはいただけないが、いわば「持たざる者」がたくましく生きる上でもテクノロジーが助けになり得ることを示すシーンである。

一方、大工としては熟練だが、パソコンにほとんど触れたことのないダニエルは、オンラインの申請書づくりひとつにも四苦八苦する。映画では、ジョブセンターでただ一人そうした利用者に親切な女性スタッフ(その善意も規律を乱すとして上司に注意される)や、前述の若い隣人が彼を助けてくれる。だが本来、個人の善意をこの問題の解決策として考えるべきではないだろう。これは今後、独居高齢者が増えていくであろう日本でも、より重要な課題になりそうだ。

 

「要は他の知識や知見と同様、テクノロジーをいかに使いやすいやり方で活用できるかなのです。それを知っている者にとっては、テクノロジーが苦手な人々を助けることは難しくないはず。しかし政府がそういうことを本気でやろうとしないのなら、それは残酷なことです。そうした支援や努力を放棄するのは、弱い立場の市民を罰していると言ってもいいほどです」

 

英国では2012年に「GOV.UK」を立ち上げて省庁サイトを統合、内閣府に政府デジタルサービス(GDS: Government Digital Service)を創設するなどし、以降もデジタル・ガバメント構想が進む。日本を含め各国で検討が進むこうした流れは、多くが組織外部に対する情報開示や公共サービスの向上、また市民との対話手段の改善などを掲げている。この映画は、それらのあるべき姿について、また違った視点から広く人々が考える機会をくれるものでもあろう。

 

3.運営現場の苦悩

他方、映画は、単にシステムの運営側と利用側を二項対立で語るのでもないように思える。ダニエルに対して無慈悲なほど紋切り型の対応を貫くジョブセンターの職員たちを「悪役」とみるのはたやすい。だが、規律を遵守せざるを得ない一方、そうした対応からときに市民に罵倒され、悪態をつかれる彼ら職員も、快適に仕事をしているとは考え難い。言い換えれば、良くないシステムは運営現場をも苦しめることにならないか。

 

「その通りですね。映画製作を通じて得たジョブセンターについての情報は全て、かつてそこで働いた人々から得たものです。なかには、システムの欠陥が人々を苦しめることを理由に辞職した人々もいます。一方でこのシステムを受け入れて運用する人もいて、何とか機能させようと試みる。たとえその仕事に賛同できずとも、彼らとてお金が必要ですから、選択肢がないのです」

 

 

(c) Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch,
Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation,
France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016
シングルマザーのケイティがジョブセンターで職員から非情な扱いを受けるシーン。

犯罪歴もなく、税金もきちんと納め、真っ当に生きてきたという自負があるダニエルは、自身の正当な権利として社会保障を希望する。一方で、ダニエルら申請者が厳格なルールを守れなかった際は事情によらずペナルティを宣告するスタッフは、自己防衛のためか、強張った表情でこう言い放つ。「給付を止めるのは私ではありません」「求職者向け講座で何も学ばなかったのですか?」

 

「実際、映画でジョブセンターのシーンに登場するスタッフも、主要な2人の女性役以外はかつて本当にそこで働いていた人たちでした。彼らは「このような仕事の仕方は間違っている、私にはできない」と言ってジョブセンターから去っていった人たちです。そして、こうしたシーンの撮影においては、彼らがリアリティを与えてくれましたし、こうしたシステムの実践が実際どのように行われ、組織化されるのかを教えてくれた人たちがいました」

 

システム=制度は、規律によって恣意性を除いた「正しさ」を目指す仕組みと考えることができる。しかし、だからこそその「正しさ」は設計時のみならず、運用を通じても常に検証され続けねばならないはずだ。テクノロジーがシステム運用における一律性と匿名性を高めやすいことを考えるとき――言い換えれば、「顔の見えない」仕組みのなかで常態化が進みやすくなるとき、これは従来以上に留意すべきことだと思われる。たとえば、テクノロジー導入で効率化や人的コストの節約がなされたとき、一方で「少数事例」への対応力は後退していないか。映画はこうしたことも考えさせるものであった。

 

4.「人間の尊厳」という足場から

(c) Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch,
Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation,
France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016
主人公のダニエル(左)と、苦境を支え合うケイティ。

生活費もままならなくなったダニエルが心身ともに追い詰められたとき、上述のシングルマザーらの介入で彼は弁護士の助けを得、事態は遂に好転の兆しを見せる。しかし直後にダニエルは心臓発作で倒れ、厳しい晩年に突然の終止符が打たれる。英国での公開時、ダミアン・グリーン労働年金大臣(当時)は本作を「現実味を欠くフィクションだ」と評した。しかしその後、この「フィクション」をなぞるような出来事も現実に起きている。20171月、呼吸困難などの症状を訴えていたロンドン在住の男性(56歳)が就労可能と判断され、ジョブセンターからの帰宅途中に心臓発作で亡くなったのである。

では問題の本質はどこにあるのか。ローチ氏の見解は、それは「貧困を生み出す経済システム」にあり、さらに「富裕層を代表する政治家たちはこうしたシステムの維持を望んでいる」と辛辣だ。彼によれば、1940年代から戦後にかけて福祉社会が目指された一方、その土台となる経済には改革がなされなかった結果、制度矛盾の代償は「貧者に責任を負ってもらうという何世紀も前のやり方の再開」に帰結したという(氏は1531年の「浮浪者取締法」や、19世紀の「救貧院」を挙げ、さらにサッチャー政権以降の新自由主義と緊縮財政にも言及した)。

 

「政府は貧困の責任は人々自身にあり、制度には問題がないと言うでしょう。もしあなたに住む家がないとき、問題なのは住宅供給ではなく、あなたが十分に賢くなかったからだ――そういう考え方です。そして、ある種のテクノロジーもまた、人々がこうした状況の改善を訴えにくくするために利用されてきました。予約を守れなければ罰せられ、数分の遅刻でも罰せられるというふうに、お役所的ないくつもの理由で、人々は失敗に対する制裁を受けるのです。こうした現実が、我々にあの映画を撮らせたと言えます」

 

またローチ氏は、問題の抜本的な解決には「かつて社会主義と呼ばれた共有の仕組みを土台にした、経済システムの変革が必要」だと考えている。

 

「『ダニエル・ブレイク』で描かれる衝突や葛藤も、個々の人間が対抗し合った結果ではありません。問題は、貧困や搾取を生み出してしまう経済システムからきているのです。それが変わらないうちは、ダニエルに起きたような苦難は、また繰り返されるでしょう。つまり、構造的な問題なのです。真に社会を理解するためには、古い考えが有効なこともあります。つまり、私に言わせればですが、この問題については階級間の闘争の歴史を見つめ直し、そこから学ぶことが大事だと思います。時代遅れの言葉ではありますが、真実でもあり、そこが出発点なのです。各々の細部だけを見るのではなく、問題の大局を見つめるべきです。なぜなら、時代や場所ごとに細部は変わっても、常に変わっていない考え方が問題の根底に見いだされるはずだからです」

 

これらの主張については、おそらく様々な意見があるだろう。その判断は、読者各位に委ねたい(なお筆者は、資本主義社会において格差は避けがたいという点で氏に同意しつつ、その是正・改善に民主主義が寄与し得る可能性をまだ信じたい)。

しかし、行政サービスや情報システムに関わることで言えば、この映画が主義思想を超えて訴えてくるものも確かにある。それは、行政サービスも情報システムも、それらが生きた人間を相手にするならば、手法や技術にかかわらず、個人の最低限の尊厳を守るかたちを目指すべきであろうということだ。映画のラストシーン、ダニエルの葬儀で読み上げられた遺言とも言える書き付けは、それを端的に示すものだった。最後にこれを紹介して本稿を締めくくりたい。
「私は依頼人でも 顧客でもユーザーでもない。怠け者でも たかり屋でも 物乞いでも泥棒でもない。国民保険番号でもなく エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思っている。地位の高い者には媚びないが 隣人には手を貸す。施しはいらない。私はダニエル・ブレイク。人間だ。犬ではない。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度というものを。私はダニエル・ブレイク。一人の市民だ。それ以上でも以下でもない」

 

ケン・ローチ(Ken Loach) 1936年6月17日、イングランド中部・ウォリックシャー州生まれ。電気工の父と仕立屋の母を両親に持つ。 高校卒業後に2年間の兵役に就いた後、オックスフォード大学に進学し法律を学ぶ。 卒業後63年にBBCテレビの演出訓練生になり、66年の「キャシー・カム・ホーム」で初めてTVドラマを監督、67年に『夜空に星のあるように』で長編映画監督デビューを果たした。 2作目『ケス』(69)でカルロヴィヴァリ映画祭グランプリを受賞。 その後、ほとんどの作品が世界三大映画祭などで高い評価を受け続けている。 労働者や社会的弱者に寄り添った人間ドラマを描いた作品で知られる。 その政治的信念を色濃く反映させた、第二次世界大戦後イギリスの労働党政権誕生を、労働者や一市民の目線で描いたドキュメンタリー映画「THE SPIRIT OF ‘45」(13)などがある。 『わたしは、ダニエル・ブレイク』で第69回カンヌ国際映画祭(2016)パルム・ドールを獲得。『麦の穂をゆらす風』(06)に続く2度目の受賞となった。 これはミヒャエル・ハネケらと並んで最多受賞記録である。

 

内田 伸一(うちだ しんいち) 1971年生まれ。東京在住。大学卒業後ビジネス系ソフトウェアのプログラマーとして数年働いた後、ライター・編集者に。 若手建築家たちが中心に発行していた雑誌『A』、ロンドン発カルチャー誌の日本版『Dazed & Confused Japan』、クロスジャンルのウェブサイト『REALTOKYO』などに参加。 日英バイリンガルの現代アート誌/ウェブサイト『ART iT』で副編集長を務めた後、現在フリーランスとしてアート、映画、カルチャーなど多岐に渡る分野で取材・執筆を行う。 『行政&情報システム』では2017年からインタビュー記事を不定期で担当。https://www.shinichiuchida.com/